それは、私の生後三ヶ月から一歳の誕生日を迎えるまでのほぼ毎日が記録されている、4冊のノート。
その日食べたもの、睡眠時間、便通、それから数行の観察日記。
書き手は主に母方のおばあちゃんで、ときどき母、そしてごく稀に、父。
もともとは、ほとんど産休を取れずに出版社の仕事に戻らなければならなかった母の代わりに日中私を育ててくれたおばあちゃんから母への連絡帳のようなものだったのだろうけれど、次第に、おばあちゃんの毎日の思いが綴られるようになった。
たとえばこれは、私がもっとも好きなページのうちのひとつ。
<9月26日(火) 雨
10時半 オレンジジュース 50cc
11時 ヨーグルト
12時 おかゆ
2時半 ミルク 140cc
今日も相変らず寒い日。子供番組の音楽を聞きながら一人でねむる。約三十分。
おかゆを食べながら又眠る。
昨日も今日も二人で静かな日。
一時間ばかり手枕でお互いのぬくもりを肌に感じ、香りの良い顔を自分の顔の下にしてうつらうつら。可愛いものですね。
小さな手をしっかりと。お母さんにはうらやましいかもわかりませんがお昼の間は御心配なくね。楽しくやっています。>
妹と比べると私は手のかからない子供だった、とよく言われるけれど、日記を読んでいると、当時60歳だった祖母がとても大変な思いで日々私の面倒を見てくれていた様子が見てとれる。
と同時に、自分が両親や祖父母を始め、周りの人たちからどれだけ大切に、たっぷり愛情を注がれて育ったのかがよくわかって、いつも胸がいっぱいになる。
妹が生まれるまで過ごした横浜を離れてからも、祖父母の家にはよく通った。
子どもの頃は事あるごとに親戚で集まっていたし、ひとりでもよく祖父母に会いに行った。
聡明で自由きままで視野が広くて好奇心が旺盛で、ふだんは無口だけれど酔うとニコニコ饒舌になるハンサムなおじいちゃんと、真面目で正直でいつも凛としていて、相手が子供であっても礼儀作法やしつけに厳しく、何をおいても心からの感謝を忘れない、美人のおばあちゃん。
私はふたりのことが、大好きだった。
18年前に祖父が急逝したとき、もっともっといろんな話をしてみたかったなぁ、とすごく後悔した。
だから、二度と同じ後悔をするものか、と心に決めて、おばあちゃんに会いたくなったらすぐに会いに行くようになった。
好物のプリンやチョコレートのお菓子を持っていくと、こんなに美味しいものは食べたことがないよ、ありがとう、嬉しい、と何度もつぶやきながら、ニコニコ笑う。
その笑顔を見ながら、おばあちゃんの昔の話を聞いたり、他愛もない会話をする時間が大好きだった。
おじいちゃんが生きていた頃、気ままなおじいちゃんをカバーするかのように、おばあちゃんはしっかり者の担当だった。
温厚で優しかったけれど、子どもに対してもむやみに決して甘やかすようなことはなく、礼儀や作法にはとても厳しかった。
ところがおじいちゃんの死後、しっかりする必要のなくなったおばあちゃんは、甘えんぼうで寂しがりでユーモラスで怖がりでおしゃれが大好きな元来の性格がよくよく出てきて、会う回数が増えるたびに、私は愛らしいおばあちゃんがもっともっと好きになった。
私が来るといつも、おばあちゃんはまず嬉しくて泣いて、帰るときには淋しくてまた泣いた。
ふたりで過ごす時間はいつも優しくて、いつも少しだけ切ない。
おばあちゃんの口ぐせは、「ありがとう」だった。
毎日つけていた日記も、残したい出来事のすべてにありがとう、と嬉しい、が溢れていた。
そして、最後に会いに行った日、熱のせいでほとんど眠ったままだったおばあちゃんがたった一言、私にかけてくれた言葉もやっぱり、「ありがとう」だった。
私は未だかつておばあちゃん以外に、あんなにも嘘のない、心のこもったありがとうだけでできている人を、知らない。
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2016年11月14日、月曜日。
明け方に、夢を見た。
とても広い部屋の中でたくさんの人たちと一緒に座っていると、羽の生えた観音さまのような大きな女の人がスーッと歩いてきて、私のそばにいた小さな女の子の手をとって、空へつれていってしまった。
なんだか淋しい夢だな、と思っていたら、夢うつつに家の電話が鳴る音が聴こえた。
電話に出た母の声がだんだん涙まじりになって、寝ぼけながら、おかあさん、とドアの外に声をかけたら、電話を切ったあと私の部屋に入ってきた母は、おばあちゃんが、と言ったきり、私の枕元につっぷして泣き出した。
この世に生を受けてから97年と15日。
赤ちゃんだった私が子守唄のように聞いていたおばあちゃんの優しい鼓動は、みんなが、そしておばあちゃん自身も眠っている間に、そうっと動きを止めたのだという。
それまでの数週間、あるいは数年のうちに、家族のそれぞれにとっていちばんふさわしい形でちゃんとお別れをして、おばあちゃんは旅立った。
最期まで筋の通った、お手本みたいな生き方を貫いた人だった。
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私は、生や死に対する感覚が、人よりだいぶ鈍いのではないかと思う。
それはおそらく、私が目に見えない存在や亡くなった人の魂と対話することがいつからか日常の、ごくあたりまえのことになったことに起因している。
亡くなった人の魂の在り方は、さまざま。
自分にとって大切な人が亡くなる日までずっとその人にくっついている魂もいれば、必要なことづてだけ五次元の伝言板に残して、自分はさっさと生まれ変わってしまう魂もいる。
生きている間によっぽど強い情念を残したまま死んでしまったり、今まだ生きている人が亡くなってしまったその人に対して強すぎる執念や情念を抱いていたりすることで苦しんで、いわゆる怖い「おばけ」になっちゃっている魂もときどきいるけど、ほとんどの亡くなった人たちの魂はおどろくほど陽気で茶目っ気があって、穏やかだ。
そんなものたちと日々対話していると、肉体を持っている人と持っていない人の違いなんてさしてたいそうなものじゃないような気になってくるし、健やかに肉体を離れた(というのもおかしな言い回しだけれど)人たちに接するとだいたい、悲しんでいるのは生きている人だけで、悲しまれている本人はちっとも悲しんでなんていないんだよなぁ、と複雑な気持ちになったりもする。
もっといろんな話がしたかった、と思っていた母方の祖父とも、生前より死後の方がずっといろんな話ができてしまったことで、いつのまにか悲しみや後悔はまったくなくなってしまった。
そんなこともあって、心のどこかで、これから先、自分にとって大切な人が死んでしまったとしても、どうせまたすぐに会えるからいいや、と思ってしまっているようなところがある。
事実、横浜のおうちに帰ってきたおばあちゃんの亡骸に会いに行ったときも、冷たいこと以外はこの間会ったときとなんにも変わらないおばあちゃんの「形」を自分がどれだけ愛していたかにうちのめされながらも、沸いてきたのは悲しみより、たまらない淋しさと、否めない安堵感だった。
もともととても賢明で人に面倒をかけることを何よりも嫌っていたおばあちゃんにとって、最晩年、いろんな記憶がどんどん曖昧になってしまったり、ひとりでできないことが増えてお世話をしてもらったりすることはたぶん、周りが思っている以上に悲しくて苦しいことだったと思う。
私自身、長生きしてほしいと思う一方で、それがおばあちゃんにとって本当にしあわせなことなのか、と考えるたびに、疑問が残った。
だから、帰ってきたおばあちゃんのとても穏やかなお顔を見たとき、まったく苦しむことなく生ききったんだな、解放されたんだな、と正直少しだけ、ホッとした。
そして、私にとって悲しみという感情がそのとき不釣り合いだったのは、そこにいる誰もがはっきりとわかるほど部屋の中に満ちていた、おばあちゃんの「気配」のせいだった。
肉体を離れてすぐに物見遊山に出かけてしまった好奇心旺盛なおじいちゃんの魂とは真逆の、ひとりで電車に乗ることもできないくらい怖がりだったおばあちゃんの魂は、肉体を離れたもののどうしていいのかわからず、自分の亡骸が横たわっているお布団の上で、まごまごしながらちょこんと正座しているのだった。
おばあちゃんがそこにいるのに、悲しむことなんて、できない。
おばあちゃんの身体に触れた私の身体の細胞は淋しい、淋しいって叫んで涙を流すのに、意識は冷静におばあちゃんの様子を観察している。
それはとてもおかしな感覚で、私は自分で自分を持て余していた。
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11月18日、土曜日。
家族とごく近い親戚だけでのお通夜と葬儀だったけれど、お花でいっぱいにしよう、とみんなで贈ったたくさんの美しいお花に囲まれた祭壇の真ん中で、おばあちゃんは静かに横たわっていた。
お通夜の読経が始まってしばらくすると、私は背後にふとおばあちゃんの気配を感じた。
こっそり振り返ると、いろんな時代の姿をグルグルしたあと、女学生の頃の姿をとどめたおばあちゃんが、自分の遺影が飾られた祭壇を見つめている。
女学生の頃のエピソードは、おばあちゃんの特に好きな話のひとつだった。
まだ女の子が進学すること自体が珍しかった時代に、13歳で親元を離れて、親戚の家から県下一の女学校に通うことになったこと。
名家の長女として大切に育てられていたのが一変し、親戚の家ではまるで使用人のように扱われて、とても大変だったこと。
家に帰ると勉強ができないから、毎日最後まで学校に残って一生懸命勉強して、成績はいつもいちばんだったこと。
言い回しもぜんぶ真似できるくらい何度も聞いたその話は、私にとってはずうっと昔に過ぎ去ったおばあちゃんの青春の一コマとしか思っていなかったけれど、今私の目の前で、小首をかしげながら祭壇を眺めている負けん気の強そうな女の子は確かに実在していた、けれども私の知らないおばあちゃん。
戦争が影を落とす時代の中でも、つらいことがあっても歯をくいしばって涙をこらえて、淡い恋をしたり、未来に夢を馳せたりしながらがんばって生きていた女の子。
それは、その場に参列しているだれひとりとして見たことのないおばあちゃん。
だけどもしその時代がおばあちゃんにとっていちばんかけがえのない時間だったとしたら。
ふとそんなことを考えたとき、私は初めて、とてつもなく悲しくなった。
おばあちゃんにとって果たして人生のどの時間がいちばんしあわせだったのか。
それは、おばあちゃんにしかわからない。
だけど、私はおばあちゃんのことが大好きだから、おばあちゃんにとってのしあわせな時間の中に、自分の存在があってほしい。
そんなふうに、感じてしまったのだった。
通夜振る舞いの途中、私はひとり抜け出して、ずっと、おばあちゃんの棺のそばで今にもまた目覚めそうな美しいお顔を眺めていた。
このとき私は、おばあちゃんの魂がどこにいるかなんて、ちっとも気にならなかった。
魂がいつもそばにいればそれでいい、なんていうのはきれいごとの嘘っぱちだ。
会いたいのは、そばにいたいのは、この身体の中にいるおばあちゃんだった。
誰よりも澄んだ美しい目や、私とおなじ形をした温かい手や、「おばあちゃんのかわいこちゃんの樹世乃ちゃん」と私を呼ぶ優しい声に、これからもずっと、会いたかった。
身体が朽ちないものなら、このままずっと冷たく眠ったままでもいいから、せめてこの形をこの世界に残しておきたかった。
しばらくすると、おばあちゃんにとってひ孫にあたる8歳の男の子が、何を話すでもなく、だけど、何かを共有したいような顔をして、私の隣にやってきた。
最初はずっと黙っていたものの、なんとなく間が持たなくて、ひとりごとのようにおばあちゃんとの思い出をポツポツと話していると、その子がふと、棺の上に置かれた護り刀を指さして、これは何?と尋ねる。
ーこれは、刀だよ。天国に行くまでに怖いのがきても、この刀が護ってくれるんだよ。おばあちゃんはサムライの家の子だから、きっと強いだろうね。
ーとりいすねえもん。(彼はとても得意げに、いちばん有名なご先祖の名前を挙げた。)
ーそう。強右衛門さんは武士だけど、そのご先祖をもっともっとさかのぼると、熊野三所権現っていうものすごい神様たちがいる神社の神職の家なんだよ。だから、おばあちゃんは仏さまにもご先祖さまにも神さまにも護られてるから、安全だね。
ーおばあちゃん、すごいね。
ーうん、すごいね。誇らしいね。
ーうん。あのね、明日、おばあちゃんのそばにチョコレート10個入れてあげてもいい?
おばあちゃん、チョコレートが大好きだから、天国まで遠くて途中で疲れちゃっても、食べたら元気が出ると思うんだ。
ハッとした。
それまでも何度か顔を合わせたことはあったものの、まったく関心を持ったこともなかったこの子がこんなにも優しくて、おばあちゃんのことを想っていてくれたことを、私はちっとも知らなかった。
それは、さっきまでの悲しみをかき消してしまうくらいの、大きな発見だった。
血がつながっていること。
血がつながってゆくこと。
その意味と尊さを、実感した瞬間だった。
私の大好きだったおばあちゃんを、この子も知っている。
私の愛するおばあちゃんを、この子も愛してくれている。
子どもを持たない私はその想いを誰にもつないでいけないと思っていたけれど、この子がちゃんと、私たちに流れる同じ血の中にある大切な何かを、これから先につないでいってくれる。
そのことを、心から嬉しいと思った。
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11月19日(土)
お別れの準備はできていたはずなのに、最後のお焼香のときはどうしても、嗚咽を抑えられなかった。
だけど、読経が終わり、ずっとお世話になっていたお寺の住職が浄土への扉をちゃんと開いてくれた瞬間、おばあちゃんの魂はそれはそれは美しい光になった。
みんなみんなが泣きながら棺をお花でいっぱいにしているとき、妙蓮浄雪大姉、という素敵な名前のついた観音さまになったおばあちゃんは、キラキラ光りながら自分の愛する一族のことを照らしていた。
それはもう、私の大好きなあのおばあちゃんではなかったけれど、おばあちゃん、と呼びかけたらきれいな鈴の音のような声で返事をしてくれるこの崇高な魂がこれからずっと私たちのそばにいてくれることは、やっぱりとても嬉しかった。
そして何より、そのことを母に伝えられること、それによって母が少しだけ楽な気持ちになることが、すごくすごく嬉しかった。
おばあちゃんが産み育てた5人の子どものうち、いちばん優しくて一生懸命でお母さんのことが大好きだった「みっちゃん」を最愛の母に持つことができたのは、私の人生でいちばんのしあわせのうちのひとつ。
だから、「みっちゃん」にできるだけ悲しい思いをさせないことや、これからしっかり支えていくことは、私が大好きなおばあちゃんにできる唯一の恩返しでもある。
おばあちゃんの骨は雪のように真っ白で、美しかった。
私は自分や家族が死んだら、骨を圧縮してブルーのダイヤモンドにする、と決めている。
ひょっとしたらもう遅いかもしれないけど、これからもっとがんばっておばあちゃんのようにいつも感謝を忘れないまっすぐできれいな心でいられたら、きっと私の骨もあんなふうに真っ白になって、それはそれはきれいなダイヤモンドになれるかもしれないな、と思った。
葬儀の帰り道、両親と妹と四人で寄り道して、ちょっと贅沢なチョコレートのアイスクリームを食べた。
心の中はみんなそれぞれグチャグチャで淋しくてたまらなかったけど、おばあちゃんを想いながら食べたアイスクリームはとても甘くて、私たち家族はそのとき確かに、しあわせだった。
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たぶん私の心の中にも細胞の中にも、とうてい言葉にしきれないような想いがまだまだたくさんあって、それをぜんぶ昇華できる日はきっと、最後まで来ることはないだろう。
今はまだ、毎晩お風呂に入るたびに、おばあちゃん、と声に出しては、湯気と一緒にたくさんたくさん涙を流し、目を腫らして眠りにつく。
けれどもそれは決して悲しみや淋しさだけではなくて、思い出すたびに胸がいっぱいになるくらい愛情と優しさしかなかったおばあちゃんとの時間が私にくれた温かなぬくもりや愛着や、何よりも感謝の気持ちがもたらす、キュウキュウ痛くて、とても愛おしい種類の涙だから、私は喜んで、今夜もまた目を腫らす。
先祖代々名前の一部を受け継いできた母方の一族の伝統に則ってつけられた私の名前は、おばあちゃんの名前のひと文字を受け継いでいる。
そのまっすぐで凛とした生き様もまた、私の中に、しっかりと刻みこまれている。
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