2016年6月1日水曜日

20160530

結局のところみんな、ないものねだりなんだろう。


半年前に赤ちゃんを産んだばかりの親しい友だちに会いに行って、母親になった人に特有の揺るがない強さと美しさを目の当たりにしたとき、私には彼女がとても眩しく見えた。

意識的にも肉体的にも現実的にも、私が子どもを持てる可能性は薄い。

いろんなことをのみこんだりあきらめたり自分の心を確認したりして、それでもかまわない、という結論を出しているはずなのに、生まれたばかりの赤ちゃんが小さな指で私の指をつかんだり、お母さんの姿がちょっと見えないだけで泣いたりするのを見ると、あぁ、こういう喜びにも出会ってみたかったなぁ、と少しだけ揺らぐ。





お互いに、会わなかった間の近況を話している最中に、彼女がぽつりと、キヨノちゃんはいいなぁ、とつぶやいた。

「好きなことややりたいことをいつもちゃんと行動に移して、そのぜんぶが少しずつ実を結んでいて。いいなぁ。」


17歳で知り合った頃から彼女はずっと、自分のことはとにかく頑固で要領が悪くてペースが遅くて、なんてけなすくせに、他人のことはいいところをたくさん見つけていつも心から褒めてくれる人だった。

でも、たとえどんなに人のことを褒めても、彼女が誰かを羨ましがることはなかったように思う。

誰かにできることが自分にはできなくても、それはそれ。人は人、自分は自分。
そういう価値観を、強固に貫いていた。

だから、彼女が私のことを「いいなあ」なんて云うのは初めてのことで、私はちょっと、面食らった。


結婚して子どもを持つことは彼女にとって望んでいたことでもあり、彼女が彼女の人生の中で絶対にやらなければならないこととして決めていたことでもあった。

でも、それを叶えるということは同時に、それまでにやっておきたいことをやるチャンスを失う、ということでもある。

大学を卒業してすぐ公務員としてずっと同じ職場で働き続けていた彼女には、ひそかにあたためていた夢がいくつかあった。

そのうち時間を作れるようになったら、と先延ばしにして結局行動することができなかった、という小さな後悔が今、大きなしあわせと背中合わせに彼女の心の中でひっかかっていて、そのひっかかりが、私への「いいなぁ」という一言につながったんだろう。

でもその小さな後悔を残しておくことこそ、これから先のいつか、子育ての落ち着いた彼女がもう一度ゆっくり自分の人生を生きられるようになったとき、円熟した形で夢を叶えられる近道になるのだ、と私は思う。

だから、彼女が私をうらやましがる必要なんて、ちっともない。
そう伝えたかったけど、うまく云えなかった。

だって私も、少しだけ彼女のことが、うらやましかったから。


***
しばらくの間、心にひっかかっていた言葉がある。


私の時間が止まってしまった時期に出会ったある人に云われた、「なんか違う」という言葉。

その人に最初に会ったとき、同類を見つけた嗅覚が働くとともに、でも人生が交わることはないな、というなんとなくの違和感を直感的におぼえたはずなのに、音楽を通じて仲良くなって、話も価値観も合うし、見た目の雰囲気も好みとは違うけど落ち着くし、なによりも一緒に生活をしているイメージが描きやすかったから、だんだん、別に恋愛感情がなくても、仲良しの友だちでいられる人なら一緒に生きていくのにいちばんいい温度でいられるんじゃないか、と思い始めた。

恋をするのはもううんざりで、だけどとにかく今いるところから這い出たくて。

今になって考えてみれば、彼も私もおなじくらい真っ暗闇の中にいて、お互いに光を探していたから共鳴しただけのことなのだけれど、完全に自分を拒絶していた私よりも彼の方が、より自分の直感に正直にいることができる人だった。

「なんか違うんだよな。わかるでしょ?」


何かの話の流れでそんなことを云われたとき、わかるようなわからないような、わかったところで別にどうでもいいような気がしながらも、その言葉の意味を深く考えなくちゃいけないこと自体が私にとってはすごいストレスだったから、もういいやってめんどくさくなって、すでに両足をつっこんでいた底なし沼にそのままひとりで沈みこんでしまった。
けれど、暗い沼から完全に上がった今、過去をほとんど排除した状態でもう一度その言葉の意味を考えてみると、なんだかとても、納得がいく。


人生を振り返ったとき、あのときあの選択をしなければどうなっていたかな、と考えるのは仕事のことばかりで、恋愛に関しては別に後悔はないし、自分自身のことを勘違いしている私のまま誰かといたところで、結局うまくやっていくのは難しかっただろうから、今の状態は必然でしかない。

とどのつまり、今までしてきた恋愛はぜんぶ、なんか違う、だった。
悲しい哉、その一言に尽きる。

たとえばこれまでつきあった人や好きになった人たちのことを思い浮かべると、そこにはおもしろい共通項があって、全員もれなく一緒にいる時間の長いシチュエーションにいた人で、音楽に何かしら関係があって、犬が好きな人だった。

この三つの共通項の中にもすでに、私にとっての「なんか違う」は含まれていた。

音楽はできれば譲りたくない。
一緒にいる時間の中で情がわくのもそんなに悪いことじゃない。

でも私、犬なんて好きじゃない。

これはとても馬鹿げているようだけど、犬が好きなジャンルの人と私との間には、どうしても相容れない溝が存在している気がしてならない。

私の友だちにも犬好きはたくさんいるし、私はその人たちがみんな大好きだけど、それは友だちだからうまくいくのであって、それが人生の伴侶ということになったら、まったく別の問題で、犬が私の家族の一員になることはたぶん、未来永劫、ありえない。

このうまく説明できない、でも確かな違和感こそまさに、「なんか違う」なのだ。


このことに気づいてさらに遡ってみると、おそろしいことに、高校時代に大好きだったアイドルも、中学や小学校で好きだった人も、さらには幼稚園のときの初恋の人にいたるまでみんな、犬を飼っていた。

根本的なところがなんか違うけど、そのことには目をつぶって、一緒にいるうちに同じところや好きなところをいっぱい見つけながらいつも無理やり、これこそが大切な恋だと思いこむ。

それが私の恋愛の常套手段になっていた。

だけど、根本的なところの「なんか違う」こそ、いちばん大切にしなければいけない感覚だったんだ。

となるとつまり、私は初恋から30数年もの間、なんか違う、どころか、大間違いをしていたことになる。



そして、ようやく気づく。

生涯の伴侶に私が求めるものは、たったひとつ。


「やっぱりそうだ」



この数年で、自分が違和感をおぼえるものを自分に関わるものの一切からなくしていくことを繰り返していくうちに、どんな些細なことでも「なんか違う」ものをのみこんだら結局失敗することがよくよくわかった。

そうなってくると、何をするにも時間はかかるし、頭も心もじっくり使うことになるからいろいろ大変だけれど、急がば回れ、とはよく云ったもので、妥協することの一切をやめたら、結果はやっぱりそれなりに満足できるものしか残らなくなった。


これをやっているとあらゆることの可能性が針の先のように細くなっていくから、必ずしも万人にそれが良いとは思わない。

けれど、少なくとも私は、自分の中にいつも違和感のない状態で過ごしている今を、人生でいちばん心地よく感じている。


白馬に乗った王子様を待つお姫さまになるには残念ながら年を取りすぎてしまっても、やっとこさ「なんか違う」の呪縛から覚め、人を愛するということのなんたるかを知り、自分の心の声をまっすぐに聴くことのできるようになった状態でこの先誰かを好きになることができたなら、それはきっと私にとって本当の初恋になる。

そして、もしその人が一過性のギフトじゃなくてどちらかが死ぬまで一緒に生きていける人生の伴侶になってくれるのだとすれば、そのとき初めて私は子どもの頃の憧れだった「初恋の人と結婚する」を叶えることができる。


なんの出会いの兆しもない今の生活にこの結論はさほど意味を持たない。
とはいえ、この世界のどこかにいるかもしれない自分の伴侶の輪郭が少し見えるというのは、なんとなく心強い。


知るたびに、やっぱりそうだって思える音楽人。

これが、私にとっての最高の人。


そして願わくば、その人にとっての私も、やっぱりそうだ、であると信じたい。