2016年5月9日月曜日

20160508

4月の展示会から、一ヶ月。
オーダーの入ったジュエリーたちを、せっせと作る毎日。


ほんとうならもっと早くできるはずなのについつい別のことをやってしまう集中力のなさにほとほと呆れながらも、石を選んで、作って、お手紙を書いて、包んで送って、のルーティーンに飽きることはない。


半年前のシャスタの旅で、自分に対する期待の一切をなくしたことで人生に落としどころを見つけ、そのおかげで今は毎日が穏やか。
もちろんイライラすることはあるけれど、あったらいいな、はいっぱいあっても、なくてもそれなりに満ち足りている。


満ち足りていられるいちばん大きな理由はやっぱり、仕事がなんとなくうまくまわってきていることなのだろうと思う。

この半年、私の仕事のほとんどはジュエリーを作ることに特化している。

自分の内側から何かを生み出すことは難しくなっても、大好きな石と一緒に誰かのための作品を作れる機会が増えたのはやっぱり嬉しいし自信にもなるし、ゆとりができるし、いいことづくめ。


誰かのお守りになるような、パワフルで美しいジュエリーを作ること。

それは、私のサイキック能力が開花してから、わりとすぐのタイミングで閃いた「やりたいこと」だった。


あれから8年、ずいぶんと数奇で類稀な回り道をしてきた感はあるけれど、これまでの経験も感覚もたくさんの美しいものを映してきた目もすべてを活かせる状況にようやくたどり着いた気がしている。

今では、私の作るジュエリーのことを、お守り、と呼んでくれる人が、たくさんいて、私はそれをとても嬉しく思いながら、その人の願いが叶いますように、と祈りながら作る。


好きなことと、自分の持っている能力やスキルとがリンクして、仕事としてやっていけること。

そしてその仕事の先にあるのが、必ず誰かの喜んだ顔である、ということ。

こんなしあわせなことはなかなかないと心底思うし、ひとつ作品を作るたびに、あぁ、これを作れてよかったな、嬉しいな、とまっすぐな感謝の念が湧いてくる。


一方で、オーダー票の名前を見ながら組み合わせる石を選んでいると、時々、その人の思念や感情や状況が頭や心に流れ込んでくることがある。

ふだんほとんど人と接しない生活をしているからなのか、時によっては直接目の前に誰かがいるよりも、もっと生々しい気配を感じることもある。


自分以外の誰かの気配は、好き嫌いの別なくみんな、私の頭や心をザワザワさせる。

以前ほど私の中に強い思念や感情がなくなった分、共鳴したそれらがふくらみすぎて苦しくなるようなことはないけれど、それでも、何もしていないときのニュートラルな状態を保つことが、いつもより少し、難しくなる。

そういう時は外に出たり友だちに会ったりしてできるだけ気晴らしをするようにしているけれど、なんとなくいつもと違う状態の欠片は日々積もっていくから、いまの作業が終わったら一度、大がかりに自分のお掃除をしなければいけない。


願いはすなわち、欲、でもある。

だからか、持ち主の願いが叶いますように、と祈りながらジュエリーを作っていると往々にして、私自身も自分の奥底に押し込めていたらしき欲の存在と、否応なしに向き合うことになる。


特定の誰かを愛するとか愛されるという感覚や恋の記憶をおおかた忘れてしまったおかげで、とにかくいつも愛したい愛されたい恋愛依存系女子に特有の厄介な情欲に心が支配されてしまうことはなくなったけれど、ある種の羨みとともに顔を出す別の欲がある。


とある人の書いた言葉を読んだとき。
とある人の作った音楽を聴いたとき。


あーあ。こういう才能が欲しかった。
こういうのを作れる人になりたかった。

人の心の深いところを抉って消えない爪痕を残すような、そんな作品を作れる人になりたかった。


そんなことをつい、考えてしまう。


もちろん、私にそれができないのは才能がないせいだけじゃなく、センスも努力も作品を生み出す原動力に成りうる不満足や渇望も心の機微も何もかもが足りていないからだし、じゃあそれらをがんばってなんとか得ようとするだけの気力や体力があるかと云えばそれももはや年齢のせいにして持てないことにしてしまう程度の望みでしかないのだけれど、それでもやっぱり、ものすごくグサッと心にささるものに出会ってしまったとき、これに出会えてよかった、という感動や感激と同時に、ちきしょう、この才能が欲しかったのになぁ、と臆面もなく望んでしまう自分がいる。


物質としての劣化を急激に実感する30代後半という年齢が未来の自分の可能性にどれだけ大きな影響を与えるのかはわからないし、好きなことを仕事ではなく趣味として突き詰めていって自己満足で完結させることにいずれは私も愉しみを覚えるようになるのかもしれない。

だけど、8年前の夢が巡り巡ってそれなりの形で叶っているように、今持っているこのだいそれた欲も、もうしばらくがんばって生きてみたら、何かしらの形になるかもしれない。

そんな希望が、生まれてきそうになる。


欲は人を煩わせるけど、それ以上に、欲を持つことは人生をおもしろくする。

穏やかで退屈な人生に飽きたら、少しだけ欲のために生きてみて、そしてまた穏やかで退屈な人生に戻る。

そんな日々を繰り返しながら、それでもささやかな希望を持ち続けていられたなら、生きている甲斐はずっとずっと倍増するような気も、してしまう。


ここ数日でいくつか新しいちきしょう、に出会ったから、それを記しておくのもいいかな、と思うけど、これを書きながらふと、15年以上も前にたった一行で心を撃ち抜かれ、その後の私の在り方を示してくれた小説の一節を思い出した。



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お父さん、お父さん。夕焼の空は綺麗です。そうして、夕靄は、ピンク色。夕日の光が靄の中に溶けて、にじんで、そのために靄がこんなに、やわらかいピンク色になったのでしょう。そのピンクの靄がゆらゆら流れて、木立の間にもぐっていったり、路の上を歩いたり、草原を撫でたり、そうして、私のからだを、ふんわり包んでしまいます。
 私の髪の毛一本一本まで、ピンクの光は、そっと幽かにてらして、そうしてやわらかく撫でてくれます。それよりも、この空は、美しい。このお空には、私うまれてはじめて頭を下げたいのです。私は、いま神様を信じます。これは、この空の色は、なんという色なのかしら。薔薇。火事。虹。天使の翼。大伽藍。いいえ、そんなんじゃない。もっと、もっと神々しい。
 「みんなを愛したい」と涙が出そうなくらい思いました。じっと空をみていると、だんだん空が変ってゆくのです。だんだん青みがかってゆくのです。ただ、溜息ばかりで、裸になってしまいたくなりました。それから、いまほど木の葉や草が透明に、美しく見えたこともありません。そっと草に、さわってみました。
 美しく生きたいと思います。


(太宰治『女生徒』より抜粋)
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ちきしょう。ちきしょう。
いま読んでも、やっぱり、ちきしょう。


ともあれ、また朝がきた。
今日は、薄曇り。
庭に植えた蜜柑の白い花が、風に揺れている。










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