2015年12月8日火曜日

20151207

意地悪や、ひりひりのない世界にいたい。
そんなのはきれいごとだ、なんていう人は、私の世界には要らない。

もっともっと、みんながみんなに優しくあればいいのに、と思う。


怒り、という感情は、とても厄介だ。
理由は明確なのに、コントロールするのがとにかく難しい。


怒りの感情が生まれる理由はたったひとつ。
人(あるいは出来事)の実態が、自分の価値観ではどうにも受け容れられないものだから。それに尽きる。

そこに、日々少しずつふくらんでいた小さなストレスや、身体のバイオリズムや、ちょっとした気分、そういったもののタイミングが最悪の位置で合ってしまうと、怒りの感情は爆発し、手がつけられないくらい厄介なものになる。


少し前に、久しぶりにそういう手のつけられない怒りの感情を覚えたことがある。
今借りている家と向かいのマンションの間に、新しい 塀が作られたときのことだ。


私は実のところ、この三年ほど住んでいる今の家が、ちっとも好きではない。

この家は、ボロい。
人さまのものだから貶すのは失礼だけれど、この家は風情のある類の古屋ではなく、近所の心ない住人からは、みすぼらしい、と蔑まれている。

入居するときに、当時の貯金をありったけつぎこんで、2Fに新しく床を張ったり、台所のシンクは新しくしたり、壁を塗り直したり、できるだけのことはしたけれど、家は日々少しずつ傾き、大風が吹けば外壁に穴が開き、大雨が降ればそこらじゅうで水が漏れ、天井裏にはさまざまな動物が生息しており、窓はひとつとして隙間なく閉まらない。

特に1Fにある私の部屋は湿気がひどくて、納戸スペースにしまってあるものは洋服もバッグも作品までも、すべてカビの餌食になってしまう。

何もかもがきちんと整理整頓されていれば被害は多少少ないのかもしれないけど、もともと1DKでひとり暮らしをしていたときに厳選したいずれまた使う生活用品、サロンにあった備品、さらには増える一方の作品や材料など、捨てられないものでさらにゴチャゴチャしている上に、私の片付け方も中途半端だから、3年経ってもまだ一度も、この部屋で完璧な居心地の良さを感じたことは、ない。


どうしてそんな家に住むことにしたのかといえば、そこにはもちろんいろんな事情があって、立地や広さや家賃を考えればやっぱりこの家に住むより良い選択肢はあのときにはなかった、という側面も多分にあるし、いろんな利便性を考えればいいところもある。

でもやっぱり、私はこの家が嫌い。
そして、この「嫌い」という前提が、ささいな出来事を大きな怒りにつなげるきっかけとなってしまった。


数ヶ月前、近隣の住宅の建て替えが重なったときに、もともと地盤が緩い土地だったからか、家の周りを覆っていた古い石垣の一部が崩れ落ちた。

しばらくそのままだったのが、先だってついに、小さな庭を隔てて私の部屋の向かいに建っている低層マンションとの境目の塀が作り直されることになったのだけれど、ある朝、トンテンカンテンと、石塀を作るのとはおよそかけ離れた音をさせて工事が終わると、目の前に現れたのは驚愕の風景だった。

私はこれまで、塀というものは「ふたつのものを隔てて隠す」ために存在していると思っていた。

それが、塗装すらされていない細い丸太に、半透明のポリカーボネート波板が貼られただけのものが、新しい「塀」として家の敷地の境目いっぱいにできあがっている。
完全に昭和初期の懐かしさを感じさせる仕上がりは、一見すれば爽やかにも見えなくない。
でもそれは、私にとってあまりにも都合の悪い代物だった。


私の部屋から庭に面したところは一面がガラス戸になっていて、庭に向く方向に、大きな作業机を置いている。
居心地の悪い部屋で創作をするためにはせめて、庭の緑と空だけを見ていたいからだった。

それが今では庭の向こうに、これまで隠れていた向かいのマンションの敷地がよく見える。
景観が悪くなった以上に問題だったのは、向かい側からも私の部屋の中が丸見えになってしまったことだった。

まず、大家さんに若干腹が立った。
いくらあと数年で取り壊すからと言って、こんなにしょぼい塀を作るとは思いもしなかったし、しかも、ポリカ板を選ぶにしてもわざわざ半透明にしなくても透けない色を選ぶくらいの配慮があってもよかったんじゃないだろうか。
ひょっとして、地味な嫌がらせだろうか。そういうタイプの人ではないはずだけど。

とりあえず現状を把握して落ち着こう、と外に出た。
色だけの問題なら、たとえば上から色を塗っちゃうとか、一面に絵を描いた板を貼るとか、そういうふうにすればかえっておもしろくなるかも、なんていうことをなるべく楽観的に考えながら、塀に近づいた。

そこで私は、ある重大なことに気づいた。

塀は、私の身長よりも低かった。
つまり、ポリカの部分をいくら隠そうとも、大人の身長ならどのみち目線の先は丸見えなのだった。


私は、激昂した。


工事に先立って、大家さんからは塀に対するリクエストを聞かれていた。
まさかこんな素材を塀に使われるなんて考えもしなかったから、素材については何も言わなかったけれど、高さのことだけは、絶対に低くしないでください、と再三再四お願いしていた。

なのに、この始末。
これはいったい、どういうことだ。


自分の怒りのエネルギーの凄まじさがどれほどのものかわかっているから、普段は少しイラっとすることはあっても、本気で怒ることはほとんどないけれど、この時ばかりは自分を抑えられなかった。


すべて自分の都合だということはわかっていた。

事実はただ、これまでは人にのぞかれる心配のなかった自分の部屋が、これからは誰かに見られる可能性がある、という、つまらないこと。

それによって、空が見えないと息がつまってしまうから、と年がら年中開けっ放しにしているカーテンを閉めておかなければならなくなるのが嫌だ、とか、ナギちゃんを始めとする私の大切な植物たちにお日さまの光をちゃんとあげられなくなってしまう、とか、ただでさえみすぼらしくてみっともない家がこの貧相な塀のせいでますますみすぼらしくてみっともなくなって惨めな気持ちになる、とか、そんなくだらないこと。

だけどその日の私は、そのくだらないことを、くだらない、の一言で笑い飛ばすことが、どうしてもできなかった。

そのとき、私は展示が終わってすぐから数日間もひどく体調が悪くて寝込んでおり、ただでさえゴチャゴチャしている自分の部屋は、展示前の慌ただしさでしっちゃかめっちゃかに散らかっていた。

加えて、すっかり慣れたつもりになっていたけど、薄い板一枚隔てた部屋の天井では四六時中、ネズミやネコやハクビシンだと推測される何かしらの動物が走り回っていて、眠っていても耳をそばだててしまうほど気を張っているのが実はいつだって嫌で仕方なかったことや、遊びに行った友だちの家が新築だったり、古くても居心地がよかったりするのを見るたびに、自分の生活している空間に対する違和感がいっそう強まっていることをとりあえず今はどうしようもないし、とあきらめ半分でごまかしているのもまた嫌で仕方なかったことにまで、気づいてしまった。

そういった小さなモヤモヤのひとつひとつが怒りの感情に輪をかけて、それがこの塀の誕生というタイミングに重なったことで、一気に爆発してしまったのだった。

大家さんとの、話し合って事情は理解したもののもうどうすることもできず、ただ互いに気分が悪くなるだけの電話を切ったあと、私は数年に一度あるかないかの本気の呪詛の言葉を吐き、その醜くて強い言霊のエネルギーで咳が止まらなくなり、苦しみながら涙目で身支度を整え、熱があるにもかかわらず、とりあえず今すぐ窓の目隠しシートを買いにいかなくちゃ、と私のパワースポット・東急ハンズに出かけようとした。

すると、おそらく般若のような形相だった私を見かねて、今日は具合も悪いんだから、とりあえずこれで目隠ししたら?と妹がインドで買ったサリーを一枚貸してくれた。

発色のいいグリーンとピンクのそのサリーは、妹が買ってきたときに、かわいいなぁ、いいなぁ、と思った一枚だった。

実際、とても出かけられるような体調ではなかったし、冷静に対処されるとわりとすぐ冷静になるもので、私はしぶしぶサリーを受け取って自分の部屋へ戻り、空が見えるように天窓の30cmほどだけ隙間を空けて、あとをぜんぶサリーで覆ってみた。

すると、内側からも外側からもぼんやりと互いの風景が透けるだけで、目線はまったく気にならなくなった。
白い絞りが点々と入った庭の緑と同じグリーン色には重さもなく、明るいピンクは夜でも部屋を明るくした。
むしろ、今までは作業に集中していても無意識のうちに気になっていた、向かいのマンションの時々点灯する縦長の窓が見えなくなって、以前よりも居心地の良さを感じるほど。

ナギちゃんたちは、直射日光が少しでも当たるように、日中はサリーの向こう側に置いておくことにした。


数時間経って怒りの感情が少しずつおさまってくると、今度は、大家さんにちょっと悪いことをしちゃったな、という反省の念が湧いてきた。

基本的には、あの人はいい人なのだ。
いばったところもないし、クリエイターっぽい雑さやいい加減さも共感できるし、以前のブログを読んで私の生き方をおもしろがってくれるような気さくさもあるし、飲んべえでよく記憶が飛んじゃうことがあっても、母が頼めば庭の木を切りに来てくれるような、根の優しい、いい人なのだ。

今回ばかりは少しだけ、価値観が違っただけ。
彼の家の台所事情はわからないけど、あと数年で取り壊すことが確定している家のためにお金を出して塀を作らなくちゃならないんだから、コストを最優先するのは当たり前だし、大丈夫だ、とうまく言いくるめてこの素材や仕様を選ばせた業者さんを信用した大家さんは、ちょっと見る目がなかったかもしれないけど、別に何も悪くない。


反省ができるくらいに感情が鎮まってくると、今度は頭が思考の整理を始める。
この出来事があったことで私はかえって、自分が今の環境に対して抱えていたストレスを認識し、「こうしたい」と思うヴィジョンが明確になった。
今度また家を選ぶときには、こんなことに気をつけて、こんな空間を作ろう。

そういう整理が終わる頃には、怒りはどこかに消え失せ、このサリーの感じが気に入ったから、目隠しシートなんてもう買わなくてもいいや、なんていうことになる。

それなのに、相手に明らかな悪意があったならともかく、私が私の怒りをコントロールできなかったばかりに、大家さんは私がフルパワーで吐いた呪詛のエネルギーをたぶん真っ向から受け取ったわけで、ひょっとしたらその日一日、あるいはもうちょっとの間、具合が悪くなったり、ちょっと不運が続いたりしたかもしれない。
とんだとばっちりだ。


********

怒りに身をまかせるということは、自分のもっともおそろしくて汚い部分をまきちらす害悪に他ならず、そこから生み出されるものは自分も周りもすり減らすだけで、いいことなんて何もない。


どんな理由であれ、怒りを覚えるのはすべて自分のせいで、他の誰の、何のせいにもしちゃいけないものだけれど、怒りの原因を辿っていくことは自分が根底に抱えているコンプレックスや問題、あるいは痛みや悲しみといった深い感情に向き合うことにもつながるから、たいていの場合は自己防衛のために、誰かや何かのせいにして、やり過ごしてしまおうとする。

一時的にはその方が楽だし、怒りのループから完全に抜け出せるまで自分の根底を見つめる作業は自分の中にある膿を出し切るまで終わらないから、相当の痛みも伴うし、気分も悪い。

よっぽど時間と心に余裕があって、かつ自分から一切の興味を失う心構えと準備ができていなければ、最後までやりきることは到底かなわない。


だから、私たちのほとんどは、たいていすぐに怒りの感情にのみこまれてしまう。
自分の怒りはもちろん、他人の怒りにも敏感に反応して、イライラしたり悲しくなったり、がっかりしたりする。

そして、その感情をもたらした(と勘違いしがちな)外的な原因に対して、嫌いになったり失望したりしては、また外側のせいにして、何度でも同じループの中で苦しむことになる。


大なり小なり怒りにのみこまれると、人は簡単に、優しさを失う。
そして簡単に、他人を傷つける。

それだけじゃない。
優しさを失うことは、自分の余裕のなさや了見の狭さを露呈し、表情を醜く変え、思考をどこまでも凶暴にする。
そして、ふだんの優しさまで、本当は嘘だったのかもしれない、という失望と不信感を、相手にも自分にも抱かせる。


怒りの感情をもつことは本当に、いいことなしだ、とつくづく思う。


でも、たとえ側からみたらどんなにくだらないことで怒っているように見えても、すべての怒りの向こう側には必ず、なんらかの悲しみがある。

そして、悲しみの裏側には、その人にとって大切にしたい、なんらかの愛がある。


世界を見渡すと、その愛を傷つけられた悲しみから生まれた怒りがたくさんたくさん溢れていて、それがまた新たな悲しみと怒りを生み出すような出来事が毎日のように繰り返されている。
それらはたぶんこれからの数年間、もっともっと、増えていくことになるだろう。

これが唯一の答えではないけれど、怒りのループがスピードや規模を増しているのにはちゃんと理由がある。

あまりにも多くの怒りや悲しみがさまざまな距離感で自分の日常に溢れてくるたびに、人はどんどん冷静になる。

感情が麻痺しているのではないか、自分は冷淡なのではないか、と思えるくらいに、いろんな出来事や人の感情に対して、それから自分の感情に対しても、客観的な目をもつようになっていることに、多くの人が気づき始める。

それは、その怒りや悲しみの向こう側にあるそれぞれの愛のかたちを、ゆがめることなくそのままの形で直視するための近道でも、ある。


それぞれの愛のかたち、そして怒りや悲しみのかたちには、正しいも間違っているもない。
善悪もない。

たとえそれが自分の価値観では理解できないものであったとしても、人それぞれの価値観は、誰にも否定も干渉もできない。簡単に変えることも、できない。

たったひとつできることがあるとすれば、お互いにただ、そう在ることを認める、それだけ。


どんなきっかけであれ、そのことに気づいて、それを完全に自分の中で昇華するまで、その人の世界にはさまざまな形で怒りの感情が溢れ続けるだろう。


だからこそ、自分の中に生まれる可能性のある怒りの火種がまだ小さいうちに、私はそれをちゃんとコントロールできる人でありたい、と願う。

他人の怒りに対しては、私は怯えるか軽蔑するばかりで、なんの策も講じない。

そういう小さな人間だからせめて、自分だけの都合で怒りの感情を抱いてしまうような狭量さくらいは、さっさと手放してしまいたい。


一年に1〜2回、だいたいどうでもいいきっかけでやってくる激昂の気まずさも、この何日かずっと残っている苦味も、しばらくすればどうせ忘れてしまうのだから、残しておかなければその方がたぶん表面的にはハッピーでいられるのだけれど、自戒の念もこめて、めずらしく長い時間をかけて考えたことの答えを、残しておこうと思う。













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