2015年8月27日木曜日

20150826

何度も思い出すのにやがて忘れてしまって、でもふとした時にまた思い出してハッと何もかもがリセットされる、そういう大切なことがある。


今朝、誰かが読経している夢を見た。
おそらく、子どものころ大好きだった、母方の菩提寺のおじいさん住職の声だったように思う。


目覚めて、打ち合わせでちょっと遠出をするために支度をしながらふと、高野山の宿坊でお世話になったひとりのお坊さんのことを思い出した。

そういえば、あの人がお経を読む声は結局聞けなかったな。
聞いてみたかったな。


そんなことを考えながら電車に揺られ、いつもと違うルートを選んだ途中駅での長い乗り換え時間を潰すためにフラリと本屋に立ち寄ったら、いちばん目立つところに、高野山のあるお寺のお坊さんたちの読経と声明のCDが付録になった本がズラッと並んでいた。

あら、これはもしや、と手に取るとやっぱり、それは私が泊まったお寺で、奥付に読経をしている僧侶のひとりとして、その人の名前がちゃっかり載っている。

久しぶりにちゃんと仕事をしよう、と思い立ったからすぐに願いを叶えてくれたのかな、わかりやすいな、となんだか可笑しいような気持ちでその本を買って、そそくさと打ち合わせに向かった。


帰宅してから、そのCDを聴いた。

初めは人それぞれの声のバイブレーションについて考察してみたり、他のことをしながら聞き流したりしていたのだけれど、般若理趣経が流れ始めて少しした頃に、それは突然やってきた。


そのお経はとても心地が良くて、作業する手をとめて思わず目を閉じたら、パアーッと明るい光が瞼の裏に射す。


そして、思い出した。


すべての喜びも悲しみも怒りも孤独も欲も祈りも、ありとあらゆるものがそれを常に照らす●によって起こり●に帰す、同じものであること。

(●、と伏字にしているのは、それに似た意味の言葉はあるけれど、厳密にそれと言い切れる言葉がないゆえ)

形あるものもないものも、過ぎたこともこれから起こることも、ありとあらゆるすべてが●から生まれて消えてを繰り返す中で、自分は●と同じものであり、他の人もみんな●と同じものであり、この世界のすべてはつながっていて常に相互作用しているから、自分の行動や感情や祈りのひとつひとつはのべつまくなく余すところなく世界に映され、世界や他の在りようはのべつまくなく余すところなく自分に映されること。


そして、この感覚を思い出すときは私が私の中にある●をもっとも■していると同時に、●が●の中にいる私をもっとも■しているときでもあること。


言葉にしてみるとまったくもって訳がわからないことになるけれど、私はさっきこのことを思い出して、目からうろこが落ちると同時に、ずいぶん長かったとんでもない閉塞感からやっとまともに呼吸のできる場所へワープしたみたいな気分になった。


ああ、よかった。
そうだ、この安心感。



明日の朝になったらまた忘れちゃうかもしれないけど、次はすぐに思い出せるように、「起きたらブログをもう一度読む」って付箋をつけて、今日は眠ることにしよう。


それから、またいつかあのお坊さんに逢うことがあったなら、いや実はこんなことがありましてねっておもしろおかしく話してお礼を言おう。














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