2015年7月31日金曜日

20150730

所用で数年ぶりに、3歳から20歳まで住んでいた街に足を運んだ。

埋立地の新興住宅地だった私の地元は、震災で液状化被害はあったもののそれほど大きく変わったところもないはずが、久しぶりに降り立ったその場所に感じたのは懐かしさよりも違和感だった。

もともと地元にはあまりいい思い出も愛着もなかった上に、現在はもう10代から20代前半の記憶はほとんど埋もれて、消えてしまっている。

それなのにどうしてこんなに強い違和感を感じるんだろう、とおぼろげな道のりを歩きながら考えていたら、夢のせいだということに気づいた。

一時期、地元の街の夢をよく見た。
その当時の知り合いなどが夢に出てくることはなく、私はたいていひとりで、そしていつも、家に帰れなくて迷子になっている。
地元の街の風景は、ところどころはハッキリしているけれど、どこかあやふやでグニャグニャしていて、知らない道がたくさん出てくる。
でも、夢の中に出てくる街はいつも同じだった。


いつのまにか、私にとっての地元の街は、リアルな街ではなく、夢に出てきたあの街に取って代わられていたらしい。


記憶はどんどん上書きされていく。
それが「真実」であろうとなかろうと、上書きされた新しい記憶が、自分にとっての「真実」になってしまう。


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用のついでに立ち寄った伯母夫婦の家で夜ごはんを食べて、21時すぎの電車に乗った。

地下鉄に乗り換えたら、残業帰りのサラリーマンだらけ。
ふだん、ほとんど電車に乗ることもなくなっているから、通勤の風景すら目新しい。

すごく疲れきっている人よりも、多少の不条理と充実感と共存しながら一生懸命に仕事をしている方が大多数だと思われる30代から50代くらいの人々の姿を観察していたら、また強い違和感を感じる。

なんだろう。

一生懸命に考えを巡らせて、あることに気づいた。

私は、彼らの身体のフォルムに、どうやら違和感があるのだった。

いわゆる「メタボ体型」のおなか。
その中には、いろんなものがつまっている。
それは彼らが日々、いろんなストレスや不条理を抱えながらもすごくすごくがんばっている証拠であると同時に、とてもだらしがなくて、物悲しい。

触り心地のちっとも想像できないその大きなおなかたちを眺めながら、私の周りにはああいう体型の人があんまりいないなぁ、私の大好きだったあの人の身体とはずいぶん違うなぁ、とふと思って、それからハッとした。

自分がそのとき思い浮かべた身体の主がいったい誰なのか、思い出せない。


いろんな記憶がなくなっていくのにはもうだいぶ慣れたけれど、けっこう前に少しだけショックだったことがひとつある。

それは、かつて好きだった人の中に、もう思い出せない人がいたこと。

少し前まで完全な恋愛体質だった私は、どうでもいいことはすぐに忘れても、好きになった人との思い出や記憶はわりと鮮明にいろんなことを覚えていたのだけれど、どうやら記憶がどんどん消えていると気づいてから少し経ったあるとき、自分を試すつもりで、これまで好きになった人を書き出して年表を作る、という馬鹿げた取り組みをしてみた。

その時の記憶で、幼稚園の年少さんからつい二年前まで私は毎年誰かしらに恋をしていたはずだから、年表はぜんぶ埋まってしかるべきなのに、あろうことか、いくつかの空欄ができてしまった。

そこで、答え合わせをするために過去の日記をさかのぼった。
それによって思い出せた人もいたけれど、日記を捨ててしまったことで、ひょっとすると二度と思い出せないかもしれない人もいた。

なんてこった。
これだけは忘れるわけがない、という自信があったのに。

ちょっと凹んだ私は、自分をなんとか納得させるべく、つきあったつきあわないを問わず、覚えている人と忘れてしまった人の何が違うのかをあれこれ考えてみた。
結果、ひとつの共通点にたどりつく。


たとえば恋人という名前がついていても、気持ちが薄らいだり離れたりした途端に、慣れ親しんでいたはずのにおいや触れた感触に違和感を感じることがあるけれど、それとは逆で、恋人でもなんでもなくても、お互いの間に強い愛情やつながりみたいなものが芽生えると、たとえはっきりした言葉や形ではなくても、その想いは触れた皮膚から身体や心に流れこんでくる。

私が覚えていたのは、そういう瞬間を共有したことのある人たちだけだった。

表面的にはもうずいぶん長いこと、うまくいく恋愛からはかけ離れたところにいるにもかかわらずあんまり卑屈にならずにいられたのはたぶん、身体のいろんな細胞に流れこんできたそういう刹那的な、だけどとてつもなく密度の濃いいつかの想いのかけらたちが、無意識のうちに私の精神を満たしてくれていたからなのかもしれない。

今や、尼寺からもはや核シェルターに入ったかというほど、気分的に世間から隔絶した生活を送っている私はひょっとしたらこの先誰ともそういう想いを共有して触れ合うことなく生きていく可能性も、なきにしもあらず。

そうなればそのうち、あの地元の街の風景と同じように、現実に覚えていた記憶の代わりに、夢やイメージの中のあやふやな記憶ですべてが上書きされてしまうんだろう。

さっき思い出した誰かの身体だって実はもう、特定の誰かじゃなくて、大好きだった人や夢の中でよく会う人たちのいろんなパーツが組み合わさってできた、どこにもいない、だけど私にとってはいちばん親しみのある身体なのかもしれない。


本当のところがどうあれ、心が穏やかでいられるなら私はそれでかまわないと考える一方で、今はまだ、思い出すと心がキュウっとなったり温かくなったり懐かしくなったりする誰かさんたちの優しい指先や手足や背中やメタボじゃなかったおなかや柔らかな声と一緒に過ごした愛おしい時間のかけらがこの身体の中に残っていることを、嬉しく思う。


私の大好きだった誰かさんたちも、今やひょっとするとあんなふうに大きなおなかを抱えて生きているのかな。

だとするならばせめて、そのおなかの中にあるものがストレスや欲よりも、喜びや楽しみで満たされていてほしいと願う。

そして、その想いのかけらが今でも私の身体を優しく包んでくれているように、彼らの細胞のどこかにも、私の想いのかけらが心地よい愛の形をして残っていてくれたらいいな、なんていうことも、願ってみたりする。


じきに、満月だ。










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