2015年7月16日木曜日

20150715

今日はたぶん日本のそこかしこで、東京ではことさら、とてつもない不条理に対する怒りや憎悪の念が渦巻いていたから、具合の悪くなった人やピリピリした人も多かったのではないかと思う。 

用事があって表参道に出たら、半ば引きずられるような感じで明治神宮に足が向いた。 

初めて、神社の本殿で強い逆風に吹かれながら、神さま、今日のこと、どう思います?とラフに尋ねたら、神さまはとてもおそろしい声で一言こう告げた。

 「腹に据えかねる」

 腹に据えかねるとは、心の中にある怒りを抑えきれなくなること。 

なるほど。
そういうことか。

最近、何人かの女友達と話していて、最近のどうも不条理な感じについて触れたとき、「あの人早く暗殺されればいいのにねぇ」なんていう台詞を一度ならず耳にした。 
普段はとても優しくて、人の悪口すらめったに言わないような子たちが、そんなことをさらりと言ってのける。 

たぶん今日本でいちばんたくさんの憎悪の念を受けているにも関わらずしっかり生きている「あの人」はひょっとするともうとっくに「人でないもの」になっているのかもしれないし、「人でないもの」にとって憎悪や怒りはいちばんの栄養だから、それがますます不条理を加速させてしまっているのかもしれない。 

私も「あの人」は嫌い。
「あの人」に関わらず、顔にノイズみたいな真っ黒がかかっている人たちはきれいじゃないから、みんな嫌い。

でも、今のこの世界には結末は同じだけれどまったく異なる方法を選んでいる人種がたくさんいるから、それはもう、来た星が違うから仕方がない、くらいの心もちでいるようにしている。


選挙に関心をもつようになってから、旅先で気づいたことがある。 

都市部ではたくさんの政党から候補者が乱立していても、地方はまったく違う。 
そもそも、選択肢がない。

だから、投票する政党も限られるし、嫌だったら投票しない選択をするしかない。 
これもまた、不条理。 

だけど、この不条理がそもそもどうしてまかり通るようになってしまったのかということを辿っていったら、それはつまるところ、戦後の日本に訪れた平和な時間やたくさんのモノたちをあたりまえのように享受していることになんの感情も抱かずにきた私たちの「無関心」と「感謝の欠落」に所以している。 

誰が、何が悪かったのか。

良い悪いじゃない。
ただ、そうなっていた。
少しずつ入り始めていたヒビにも、まだ大丈夫だ、割れてないし、しばらく割れそうにないし、と流して(流せて)きただけ。

でも、3.11の直後に「風の谷のナウシカ」を観て、私は背筋が凍った。

それまでも何十回も観たことがあるのに、そんなふうになったのは初めてだった。 

なぜか。
もしかしたら、こんな未来が近いうちに現実になるのかもしれない、と心底実感したからだった。

震災をきっかけに、意識が何かしら変わった人はたくさんいたと思う。 

だけど、変わらなかった人も大勢いる。

なぜか。
おそらくは、実感がなかったから。

実感やよほどの強い思想がなければ、人はなかなか変われない。

それは当たり前のことだし、誰も悪くない。

変わることも変わらないことも無関心でい続けることもあきらめることも人それぞれが自由に決めることだけど、良い悪いじゃなくひとつの事象としてこの不条理をとらえたとき、これから肝心になってくるのは「なぜこうなったか」ではなくて、「これをきっかけに自分の意識や心がどんなふうに反応しているか」をきちんと把握することなんじゃないかとふと考える。

神さまが「腹に据えかねる」と言ったのは、別に神さまが怒っているわけじゃなく、今、私たちがおなかの中に抱えている怒りや憎悪を消化できないまま放っておいたら、いずれガンのように私たち自身を蝕んでいくことを示唆している。

だから、自分たちでとりあえずなんとかしてみなよ、自分の中の感情を消化できるのは自分だけなんだからさ、と正論で突き放されている。 

じゃあどうするか。

こんな時、私の脳は結局、スピリチュアル論で答えを出す。

怒りや憎悪をつきつめていくと、必ず悲しみにたどりつく。

悲しみには必ず、大切なものや守りたいものに対する愛着がある。 

怒りや憎悪を共有してしまったら、それが議論上の正義であろうが悪であろうが、向かう先には何かしらの破滅が待っているけれど、突き詰めたところにある愛着を共有できれば、向かう先に待っているのは再生だ。


天変地異も含めて、今起こっているいろんな物事がこれまで軽んじてきたものや忘れてしまっていたことに対するしっぺ返しみたいなものだとすれば、これから大切にしたり愛着を持ったりしたものにはその先に必ず同じものが返ってくる。 

それが、10年先のことなのか100年先のことなのかはわからないけど、そのスピードさえ、たぶん自分たちで決められる。

正直なところ、自分の人生すらさして大事にできない私のような者はこの世界に対して怒りも憎悪もない分強い愛着を持つこともないから、ある意味ここに書いたことはすごい机上の空論でしかないのかもしれないけど、それでも今日こうして考えたことを共有したいと思ったこと自体が、私なりの愛着の表現なんだろうと思う。


今日は一日中ひどい頭痛に悩まされたし、明日の雨できっとまた少し具合が悪くなるかもしれないけど、それでも今日も明日も嫌なことと同じくらい、あるいはそれ以上の、いいことを見つけられる。

そういう楽観をせめて失わないことから、続けられたらいいな、と思う。











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