2015年3月5日木曜日

20150305

気づけばもう三月。

今年に入ってから、私はずっと、言葉と向き合っている。
目標を決めて、テーマを定めて、文章を書いている。

去年の10月にシャスタに行ってから、12月に石の展示会はやったものの、三か月間はずっと映像漬けの生活で、直島に行って少しリズムは変わったものの帰ってきたらまたひきこもりみたいに過ごしているけれど、映像作品を観ている時間の比率よりも文章を書いている時間の比率の方が少しずつ増えてきた。

音楽を作る作業と文章を書く作業は、とても良く似ている。
頭の中ではいつも音符や言葉がグルグルととめどなく回っていて、あるタイミングに、ひとつの作品やフレーズの核になるものがストン、と落ちてくる。

その後、思いつくものを思いつくままに足して、それからどんどん、そぎ落としていく。


私はずっと、この「そぎ落とす」という作業が上手にできなかった。
それが、いつのまにかモノを捨てることが上手になったように、少しずつ「そぎ落とす」ことのコツをつかんできたような気がしている。

音楽や文章はそもそもが余計なものだから、シンプルさばかりを追求してしまったら何も残らなくなる。
だから、按配がとても難しい。
たとえば文章なら、その一文のどこが幹でどこが枝葉なのか、とか、枝葉の重さに幹がしなってはいないか、みたいなことをつきつめ始めると、本当にキリがない。

私は本を読むときでも何をするときでも、すぐ先に進みたくなって、じっくり立ち止まることがあまりない。
でもせっかく時間がたっぷりあるのだから、今は根気よく丁寧に向き合う、ということを、とことんやってみたいと思う。


不思議。
ずっとやりたくてできなかったことに、ごく自然な流れでいつのまにかたどり着いている。


12月の展示会にたくさん人が来てくれて、その前後にアクセサリーのオーダーを個人的にしてくれた人もたくさんいたおかげで、節約して暮らせば3か月くらいはやりたいことにとことん集中できる、とわかったら途端にすごく気が楽になって、多少貧しくても心が豊かでいられるうちにとにかくやれるだけやってみよう、というのが最近の私のスタンス。

これがあと一か月もすればまた、さて、どうやって暮らして行こうか、と考えなければならないのだけれど、家の中で自分を研ぎ澄ませて言葉と向き合っていられる今の時間は、かけがえがない。



月に一度必ず会う大切な友達が、誰の文章よりも私の文章がいちばん好きだ、と会うたびに言ってくれる。

その言葉を支えに、私は今日も、いくつかの言葉を紡ごうともがく。



そういえば、昨晩、屋根の上でドタン、とすごい音がした。
我が家の屋根裏には、太った白猫(私たちはネコガミと呼んでいる)が住みついているのだけど、どうやらネコガミが上の屋根から下の屋根に降りたらしい。

太りすぎて着地に失敗したんじゃないか、と慌てて外を見たら、ネコガミの姿はなく、代わりにお月がものすごい光を放ってこちらを見ていた。


その圧倒的なエネルギーを誰かと共有したくて、写真を撮って、インスタとFacebookとTwitterに同時でアップした。

何人かの人がすぐに反応してくれたことが、とても嬉しかった。
浅いつながり。
でも、そういうものが時々くれる偶然の、そして何かとても温かいものを心に届けてくれる刹那的な瞬間に、救われることが、確かにある。



明日は満月だ。





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